長楽寺

所在地

〒731-0544

広島県安芸高田市吉田町多治比77

電話番号

 0826-42-4301

Webサイト

http://www.cyourakuji.net/

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長楽寺のものがたり

「吉川興経(きっかわおきつね)の悲劇に係する法光寺跡」

安芸高田市美土里町本郷地区引地、財の神山の麓に、太平洋戦争前は吉川説教場、戦後は法光寺と呼んだ寺があり、10数年前に廃寺となった寺屋敷跡がある。この寺には山県郡北広島町大朝新庄、小倉城十代の城主吉川興経、ひいては毛利元就に関係する寺伝があった。 

吉川興経は毛利元就の夫人妙玖の甥で頑固一徹な武将であった。当寺中国地方は長州の大内氏、雲州の尼子氏両雄の対立抗争の時代で、大内氏へ帰属することをきめている毛利元就の意に反し、尼子氏の味方にまわるなど、毛利への離反行為の数々に業を煮やした元就は、いずれ毛利家に仇をなすものとして、深川(高陽町 現広島市安佐北区)の地に幽閉し、1550(天文19)年7月に夜討ちをかけて自害させた。時に興経は33歳であった。 

興経の弟に祐経(すけつね)というものがいたが、兄の死に人生無常を感じ、出家して祐玄(ゆうげん)と名乗り、家臣津田兼清を同伴して、高田郡本村(安芸高田市美土里町本郷)に移住し、華連院法光寺を開基し、吉川一族の菩提を弔った。後年多治比にて出て長楽寺を開基したという。兼清は本村にとどまり、帰農して、津田一族の元祖になったと伝える。 

 

出典:『観光みどり』第3号 1996(平成8)年11月25日発行 

「毛利元就と美土里町」佐々木順三(美土里町観光協会顧問)